尾形光琳の絵はだまし絵の先駆け?アイデア豊富な天才絵師が今人気。

尾形光琳おがたこうりんは、江戸時代中期を代表する絵師です。万治元(1658)年、京都の呉服商「雁金屋かりがねや」の次男として生まれました。

30歳の時に当主である父親が亡くなりましたが、家督は長兄が継ぎました。それでも相続によって莫大な財産を手に入れました。

しかし元々放埓で無責任な性格であったため、仕事もろくにせずに風流人を決め込み、だたただ遊び呆けて過ごすばかりの毎日で、あっという間に貯えが底をつきました。

40代になって絵を描くことに専念し出したのは、このような経済的困窮が原因と言われていますが、理由はどうあれ、その後の光琳の作品は、後世に名を残すものばかりです。

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絵師の血を引く尾形光琳

若い時分は散々遊行三昧の日々を過ごしていたのに、何故40も過ぎてからの改心でそれ程までの魅力的な絵が描けたのでしょうか。

それはもちろんある日突然絵心が生まれて絵を描くのが上手くなったからではありません。その理由は光琳の家柄や血筋にあると言えます。

尾形家の祖先は、室町幕府第15代将軍足利義昭あしかがよしあきに仕える上級武士であったと言われています。その次の代になって侍を捨て染色業を始めた尾形道柏は、光琳の曽祖父にあたり、道柏の夫人は本阿弥光悦ほんあみこうえつの姉でした。

本阿弥光悦は桃山時代の絵師で、その画風には背景に金箔や銀箔を使用し、大胆で迫力のある構図を持つという特徴があります。同時代の絵師である俵屋宗達たわらやそうたつも同様の作風です。

光琳は本阿弥光悦とは遠いながらも姻戚関係にあり、絵師としての画才を受け継いでいたのです。また、足利義昭の家臣であったという家柄のため、公家、大名、役人などといった有力者とも繋がりを持っており、支援を受けることができたのも、大きな要因と言えるでしょう。

琳派を発展させた尾形光琳

光琳は本阿弥光悦の血を引いてはいますが、その光悦が師と仰いで模写したのは、実は俵屋宗達の方です。しかしその宗達自身も、本阿弥光悦に才能を認められ、光悦の影響を受けながら大作を手掛けるようになったのです。

桃山時代に生まれた光悦や宗達の作風は、江戸時代になって光琳が発展させ、更に時代が下っても、自分の求める絵を自由な立場で描きたいと思っていた絵師たちが、光悦や宗達や光琳の作品を手本にしながらその作風を受け継いでいきました。

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これらの人々に特定の派閥とか会派とかはなく、また尊敬する師に弟子入りして直接技術を習得するのでもなく、個人的に慕い手本として学ぶ私淑の関係でした。

しかしながら近代になると、画界では光琳に通じる特徴のある絵を描いた絵師たちをひとつの括りにするようになりました。以後色々な呼び名が付けられたりしましたが、昭和47(1972)年の東京国立博物館創立百年記念特別展で琳派りんぱという呼称を使って以来、それが定着しました。

ですからこの呼称は比較的最近できたものであり、派のは、尾形光ですが、光琳の存命中にその作風を表す特別な呼び方があった訳でもなく、光琳が始めたという意味でもありません。

光琳の絵の秘密

さて、光琳の代表作に、燕子花図屏風かきつばたずびょうぶという国宝があります。六曲一双二隻から成る大作です。その構図はリズム感に溢れ、右隻は燕子花を根元から描いて遠景を表現し、左隻はあまり根元を見せずに近景を描くことによって、大きな躍動感と遠近感を見事に生み出しています。

それでいて使われている色は箔の金色と、花の群青色と、葉の緑色の、僅か3色だけなのです。しかしその素材は贅を尽くした非常に高価なものであり、逆にその豪華絢爛さが引き立つのです。

どれもこれもに感心してしまいますが、最も特筆すべきは、右隻左隻のどちらにも、よくよく見てみると、同じ絵柄が繰り返されている部分があることです。

これは型紙を使った技法で、呉服屋に生まれた尾形光琳ならではという感じもしますが、この現代風に言えばコピペとも言うべき模様の繰り返しは、当時とすれば確かに斬新な考え方に違いありません。

おわりに

私は絵画の専門家ではありませんので、この型紙を使った技法にどのような意味があって、どのような効果をもたらしているのかは分かりません。それが良いことなのか、そうではないのか、どちらなのでしょう。

ただ、それを何気なくこなして、さり気なく画中に入れて、作品として見事なまでの完成度を保っているのは、まるでトリックアートのようだと思います。トリックアートはトリックアートとして、ひとつの芸術分野を確立しています。

尾形光琳は、一流の絵師であった半面、元々一流の遊び人でしたから、案外一流のだまし絵師だったのかも知れません。それがむしろ魅力であり、今なお人気の理由なのでしょうか。

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