令和で248個目。大化に始まる元号の歴史。深掘すれば意外な発見も。

令和れいわ平成へいせいにかわる次の元号げんごうです。元号平成の使用は平成31(2019)年4月30日までです。この日で平成の時代は終わります。翌午前0時丁度に改元かいげんされ、翌日からは令和の元号が使われます。令和元(2019)年5月1日、令和の新時代が始まります。

日本の元号の歴史は、645年の大化たいかから始まります。大化の改新たいかのかいしんで有名な、あの大化です。それから平成まで、我が国では247もの元号が使われてきました。令和は248個目です。

しかしそれまでに使われた、元号を構成する漢字は、僅か73文字しかありません。元号には末永く穏やかで豊かな時代になってほしいとの願いが込められているので、自ずと特定の漢字が何度も使われてしまう傾向にあるのです。

最多は「永」という漢字の29回ですが、今回元号に使われる漢字「令」と「和」はどうでしょうか。

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幕末に検討された幻の元号

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先ず後ろの「和」の字から見ていきましょう。「和」はほんの31年前までの昭和の「和」ですから、この字だけみれば、また同じ字を持ってきたことは、逆に意外でした。こんなに直ぐに使われた通り、「和」もよく好まれる漢字の一つで、今回で20回目の登場です。

さて、前の「令」の方ですが、こちらは悠久の日本の元号の歴史の中で、今回初めて採用された漢字です。ですから、確かに「和」だけ見れば、頻繁に出てきているという感は否めませんが、この「令」の字と合わさることで見事に調和されて、新鮮味を帯びて全く違和感がないのです。

新元号が発表されて祝賀ムードに包まれる中、「令」の字が、命令の「令」を思い起こさせるなどと発言して、政治利用しようとした不届きな輩が与党にも野党にもいました。

祝賀は新しい天皇と新しい天皇の時代に対するものでありますから、公人が好き勝手に意見を述べるべきものではありませんし、ましてや政争の具に利用するなど言語道断で、そうした発言は不敬極まりないことです。

そもそも「令」には、よい、とか、立派な、とかいった意味もあり、令兄・令嬢・令息・令夫人など、相手の親族に対する敬称としても用いられます。令和の「令」は、万葉集まんようしゅう第5巻の梅の花を詠った32首の序文からの引用なので、明らかにこちらの意味です。

ところが、かつて命令の意味合いでの「令」の字を持った元号に改元される寸前まで行ったということがあります。令和で初めて「令」の字が採用されましたが、もし幻の元号に改元されていたら、2回目になっていた訳です。

その名は令徳れいとく。幕末も際の際、徳川幕府の権威も有名無実となりつつあったこの時、文久ぶんきゅうから改められるはずでした。令徳の「令」は命令の「令」令徳の「徳」は徳川の「徳」です。つまり徳川幕府に命令するという意味で、これからは朝廷が幕府の上に立つという強い意志の表れです。

結局は幕府側が強い難色を示したことに配慮して、第二候補であった元治げんじを採用しました。しかしこの元治でさえ、元(はじ)まりの政治といった意味があり、朝廷主導の政権運営を強烈にアピールしているのです。それでも幕府としては、令徳だけはどうしても回避したかった訳です。

元号のない時代

第2次世界大戦後、大日本帝国憲法だいにっぽんていこくけんぽうに替わる新憲法、日本国憲法にっぽんこくけんぽうが施行されましたが、元号に関する記載はどこにも明文化されず、法的根拠を失いました。

戦後暫くの昭和しょうわの時代は、元号としての昭和ではなく、単に習慣として使用していたに過ぎない時代区分名としての昭和です(ただし後に元号法げんごうほうが成立して、その期間も昭和という元号であると見做されました)。

それに付け込んで、廃止論が浮上し、日本の元号は消滅の危機を迎えました。昭和25(1950)年の参議院文部委員会で元号廃止が正式に検討され、法案までまとめられたのです。

しかし、この元号廃止法案は、別の法案成立が優先されたため国会に提出されず、元号廃止法は採決されず、結局そのまま廃案となりました。

もしこの法案が可決されていれば、昭和の元号は昭和25年で打ち切られ、日本から元号が消滅してしまう恐れがあったのです。昭和26年1月1日は存在せず、その日から西暦に統一されていたかも知れないのです。

その危機を何とか乗り越え、昭和から平成、そして令和へと途切れることなく元号が続いているのですが、では過去に元号のなかった時代などなかったのかと言えば、そうでもありません。

日本の元号は645年の大化に始まり、続いて白雉はくちへと続きますが、その後が続かず、いきなり中断してしまいます。元号を使い始めてから、僅か9年ちょっとの話です。

その後32年弱もの空白期間を経て、突如朱鳥しゅちょうという元号が使われますが、1年ももたずに姿を消し、再びブランクに突入します。その間約14年半。

始まって間もなく不安定な状態となった日本の元号ですが、その後大宝たいほうという名で元号が復活し、以後は平成、令和まで途絶えることなく脈々と続いています。

念のため付け加えておきますが、日本の元号は645年の大化から始まった訳ですから、それ以前は当然のことながら、元号はひとつも存在しませんでした。

漢字4文字の元号

元号法は昭和54(1979)年6月12日に公布され、即日施行されましたが、その時の大平正芳おおひらまさよし内閣は、その成立の過程において、次の6項目の留意すべき点を挙げました。

即ち、①良い意味を持つこと、②漢字二文字であること、③書きやすいこと、④読みやすいこと、⑤過去に同一の元号または諡号しごうがないこと、⑥俗用されていないことです。

しかし元号法自体は僅か31文字の2項からなる本則と、同じく2項からなる附則でてきた非常に簡潔な法律で、上の6つの留意すべき点に関した記述は一切ありません。ですからあくまで、気を付けなさいというレベルの話です。

どれも最もなのですが、②だけは気を付けなさいという類いのものよりも、むしろこうするべきという決めつけに近い感があって、他の5点とは視点がやや違う気がします。

実際元号法成立以降の元号である平成と令和は、どちらも漢字二文字です。平成の前の昭和、昭和の前の大正たいしょう、大正の前の明治めいじ、明治の前の慶應けいおう、慶應の前の元治…、と遡っていってみても、ずっと漢字二文字が続きます。

そうなるとやはり、法律で明文化されていなくても、元号というものは漢字二文字の構成がしっくり馴染んで妥当ということなのでしょう。

しかし二文字以外はないのかと言えば、実はそうではありません。元号の歴史のかなり初期の頃ではありますが、漢字四文字を、しかも連続して5回も使った例があります。

時は奈良時代最盛期、東大寺や唐招提寺などに残るその時代の文化の総称にもなっている天平てんぴょうが正味約20年続いた後の749年、天平感宝てんぴょうかんぽう天平勝宝てんぴょうしょうほう天平宝字てんぴょうほうじ天平神護てんぴょうじんごと、天平を冠した漢字四文字の元号が4回続き、4回目の後ろの部分の神護を冠した神護景雲じんごけいうんがその次に来て連続5回、期間にして21年弱、四文字漢字の元号だったのです。

その後は宝亀ほうきという、再び漢字二文字の元号に戻りました。宝亀の始まった770年以降は今日に至るまでずっと、漢字二文字の元号以外は誕生していませんが、過去の例が示すように、元号は絶対に漢字二文字でなければならない訳ではないのです。

ただ、最初の天平感宝などは正味僅か3か月程しか存在しなかった、極めて短命なものでしたし、全体としてもこの時期に集中して正味20年そこそこあっただけですので、元号黎明期れいめいきの試行錯誤の結果なのかも知れません。でも四文字の元号もなかなかいい感じですよね。

元号が二つ同時に存在した時代

天皇と言えば日本国にたった一人その存在と、今は誰しも思うでしょうが、日本には天皇が同時に二人存在した期間があります。室町時代初頭に掛けての57年間で、いわゆる南北朝時代なんぼくちょうじだいのことです。

この間は両者が仲良く手を取り合っていたのでは決してなく、どちらも朝廷の正当性を主張して対立している関係でした。京都の北朝ほくちょうと、奈良は吉野の南朝なんちょうが並存して、皇統は完全な分裂状態に陥っていました。

どちらも正当性を主張して譲りませんから、どちらの天皇も改元して元号を改めています。この57年間、日本国には同時に二つの元号が存在したことになりますが、そのダブリを含めて、平成まで247個の元号があり、令和が248個目の元号となるのです。

一世一元の制

元号は、基本的には天皇の践祚せんそ即位そくいに際して改元されるものですが、それ以外でも祥瑞しょうずい疫病天変地異などの理由によって、時の天皇によって改められていました。

ですから同じ天皇が何度も改元するのが常でしたし、逆に践祚したものの非常に短命だったため、自身の時に改元することなく、先代の天皇の元号のまま過ごして終わってしまった天皇もいます。

現在は、天皇が代替わりする時だけ改元していますが、そのようになったのは比較的新しく、近代になった明治時代からのことです。

明治天皇めいじてんのうは慶応3(1867)年1月9日践祚し、慶應4(1868)年8月27日、京都御所きょうとごしょにて即位礼紫宸殿の儀そくいれいししんでんのぎを執り行い、内外に天皇の位になったことを宣下せんげしたことによって即位しました。

そして過去の例に違わず、即位をひとつの区切りとして、改元を実行します。即ち慶応4(1868)年9月8日、明治改元の詔めいじかいげんのみことのりによって、慶応4(1868)年1月1日に遡って適用して明治と改めたのです。

これこそが別名一世一元の詔いっせいいちげんのみことのりと称するもので、以降現在或いは次の令和の時代に及んでまで、その考えは受け継がれています。大正天皇たいしょうてんのう昭和天皇しょうわてんのう今上陛下きんじょうへいかも、そして次の令和の天皇も、践祚と同時に改元されて新しい時代が始まるのです。

ただし、一世一元は明治天皇から始まったと思われがちですが、それを詔勅しょうちょくした明治天皇自身は、実は慶應3年に践祚していて、慶應明治の二つの元号の時代を天皇として過ごしています

ですから一世一元の制は、明治から始まったけれども、明治天皇から始まった訳ではないということです。これは見過ごしがちな話ではないかと思いますので、ここで指摘しておきます。

それからより厳密に申し上げれば、平成は先帝が崩御した翌日に改元されていますので、今上陛下も践祚されたその日だけは、昭和の元号で過ごされており、二つの元号を持つことになります。大正と昭和の時は、先帝が崩御した日をもって改元されていますので、正真正銘の一世一元です。

おわりに

因みに明治天皇は明治2(1869)年に二度目の東京行幸ぎようこうをし、そのまま還幸かんこうせず、崩御ほうぎょまでずっと東京に居留まりました。最初からずっと東京に住んでいたイメージですが、即位した時はまだ京都にいたので、即位の儀式も京都御所で執り行っています。

意外なのはその後の大正天皇と昭和天皇です。二人とも完全に東京で生まれ育っていますから、京都とは無縁とまでは言わなくても居を構えたことはないのに、即位礼はわざわざ京都に戻って京都御所紫宸殿で執り行っています。

日本の首都は東京と言われて久しいですが、私は明治天皇が京都から東京に遷都せんとしたと公言した記録について見たことも聞いたこともなく、結局明治天皇は、平たく言えば東京に視察に行ったまま京都に戻ってこないうちに生涯を閉じてしまっただけなので、日本の首都しゅとは今でも相変わらず京都だと考えます。東京は首都ではなく、政都せいとと呼ぶべきです。

だから大正天皇も昭和天皇も、即位礼を京都御所で行ったのだと思います。今の皇居で即位礼を執り行ったのは、実は今上陛下が初めてで、令和の天皇が二回目です。天皇の御所はずっと京都であり、そこを留守にしているだけという皇室のこだわりが、戦後は民主主義の概念にかき消されてしまったのかも知れません。

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