三島弥彦は文武両道の貴公子。もう一人の”いだてん”こそ真の韋駄天!

三島弥彦みしまやひこ日本人初のオリンピック出場選手です。1912年にスウェーデンで開催されたストックホルム大会に参加した2名のうちの選手の一人です。出場種目は陸上の短距離です。

因みに2名のうちのもう一人の方は、同じく陸上の長距離選手として出場した、後に日本マラソンの父と称される、あの金栗四三かなくりしそうです。

当時の成人男性の平均身長が155cm前後だった時代に、この三島弥彦は170cmを超える大男であり、陸上競技の他にも野球、ボート、スキー、柔道、乗馬、相撲、スケートなどでも人並ならぬ結果を出していて、スポーツに対する造詣浅からぬ、まるで野人のような若者でした。

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目次

三島弥彦の生い立ち

三島弥彦は、薩摩藩士(のち警視総監)の三島通庸みしまみちつね子爵の五男として、明治19(1886)年2月23日に誕生しました。

長兄は銀行家で貴族院議員も務めた、旧横浜正金銀行第8代頭取、日本銀行第8代総裁の三島彌太郎みしまやたろう子爵です。その他の兄弟姉妹も、官僚であったり、政治家や学者に嫁いだりしている、絵に描いたようなエリート一家です。

また、その後の係累を辿ってみれば、二男彌二の妻の姉の子は三島由紀夫みしまゆきおであり、二女峰子の夫である牧野伸顕まきののぶあき伯爵の娘は吉田茂よしだしげる夫人、吉田茂の娘の子が麻生太郎あそうたろう、麻生太郎の実妹が、故三笠宮寛仁みかさのみやともひと親王殿下妃であらせられる信子のぶこ親王妃殿下等々、錚々たる面々ばかりです。

この、一見野人の如き三島弥彦も、この家に生まれた者として、例外なく選りすぐられた人物でした。父は2歳の時に失いましたが、裕福で厳格な家庭で育てられた弥彦は、華族学校であった学習院を経て、東京帝国大学(現東京大学)の法科に進学しています。

そして弥彦自身も、蓮池藩鍋島家当主であり、のち貴族議員を務めた鍋島直柔なべしまなおとう子爵の五女、文子を妻に迎えています。

家柄は立派で頭もすこぶる良い。それでいてスポーツは万能。三島弥彦は、まさに文武両道の貴公子です。

羽田運動場での予選大会

それだけではありません。彼は競技者としても秀でていましたが、審判員としても多くの試合で能力を発揮しています。この時既に盛んであった早慶戦で、度々審判を務めています。

だからストックホルムオリンピックの代表を決める予選会が羽田運動場で開催された時も、選手ではなく審判委員として来場するよう要請されました。

実際にはその要請には応えませんでしたが、その要請によってこうした競技会があることを知り、好奇心によって来場しました。審判のためではなく、見学のためです。

ところが元々トップレベルのスポーツマンでしたから、観戦しているうちにじっとしていられなくなり、飛び入りで競技に参加してしまったのです。

本人曰く、それまで長い間練習すらしていなかったにもかかわらず、その結果は100m、400m、800mの各短距離徒競走で第一位、200mで第二位を獲得するというものすごい俊足ぶりを見せつけました。

日本人初のオリンピック代表選手

この目を見張る成績によって、三島弥彦はオリンピック代表選手に選ばれました。他の陸上種目でも何人か選考されましたが、この当時、まだオリンピック自体が世間によく理解されていなかったことや、主催者側の予算の都合もあって、結局日本人初の栄誉が与えられたのは、三島弥彦と金栗四三のふたりだけでした。

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三島弥彦は、予選会で審判委員の要請を断ったのと同様、オリンピックへの参加も全く乗り気ではありませんでしたが、周りの人たちの励ましや配慮に動かされ、最終的には参加を決意しました。

明治45(1912)年7月6日、旗手として開会式に登場し、当日午後にはすぐに短距離予選に出場しました。しかし、最初の100m予選では、先頭選手にいきなり1秒以上の差をつけられ敗退しました。

日本での予選大会以後は、金栗四三と共に、アメリカ大使館書記官キルエソンに師事して、陸上競技の様々な技法、心得を学んでいました。そのおかげで予選大会時の自己タイムを大幅に縮めたものもありました。

ところがスウェーデンの本大会では、そのキルエソンの助言を活かすことが全くできず、さすがにこの文武両道の秀才も、すっかり意気消沈してしまいました。

そのため、200m予選もうまくいかずに最下位となりました。400m予選では、100mと200mで金メダルを取ったアメリカの選手が、他の選手に譲って棄権してしまいました。

それによって三島弥彦は、見事準決勝進出の権利を得たにもかかわらず、右足の激痛を理由にして棄権してしまいました。しかしそれは口実に過ぎず、精神的にも肉体的にも疲労困憊していて、やっても無駄と判断したためというのが真実のようです。

その後の三島弥彦

三島弥彦は、天狗倶楽部てんぐくらぶという、この当時の黎明期のアマチュア・スポーツの振興に努めたスポーツ愛好社交団体に所属していましたが、このオリンピックでの敗北によって、自分がまさに天狗であったことを痛い程思い知らされた形となりました。

この雪辱を果たすために、4年後のベルリン大会の出場に意欲を燃やした三島弥彦は、閉会式を待たずにスウェーデンを出国し、オリンピック会場等の視察のため、次回開催国であるドイツに向かいました。

そこでは砲丸や槍などの日本ではまだ知られていないスポーツ用品をたくさん買い込んだりして、帰国したのは翌大正2(1913)年2月7日でした。つまり何と、半年以上も洋行していたのです。裕福な家庭育ち故になせる業であるとは言え、その熱の入れ込みようは相当のものでした。

その年彼は、東京帝国大学を卒業して、長兄である彌太郎のいた横浜正金銀行よこはましょうきんぎんこうに入行し、銀行員として働きながら、次のオリンピックを目指していたのですが、残念なことに、第一次世界大戦の影響でそのベルリン大会は中止されてしまったのです。

次のオリンピックは8年間の中断期間を経て大正9(1920)年のアントワープ大会で再開されましたが、この時三島弥彦は34歳で、既に気力も体力も失っていたのか、予選にも姿を現さなかったそうです。

ベルリン大会を本気で目指していたのかどうかも実は疑問で、大学卒業以降はスポーツの分野で注目されることもなく、実質スポーツ界から身を引いたに等しい状態でした。

当時学生や若者に人気のあった冒険世界ぼうけんせかいという雑誌が行った痛快男子十傑投票という読者投稿企画で、運動家部門で1位に選ばれた事もあるほどの人気者であり、有名人であった三島弥彦ですが、これ以降、昭和29年(1954)2月1日、東京都目黒区で死去するまで、メディアを賑わせたことは殆どありませんでした。享年67歳

おわりに

三島弥彦は、文武両道の天才であったと同時に、暢気な楽天家でもありました。度量は大きいのですが、非常におっとりしていて、些細なことにはまるで無頓着でした。そして育ちのせいからか、実力もあって夢も大きく語る一方で、非常に気まぐれなところがあったようです。

そんなボンボン育ちの彼ですが、憎めない人格であったことは間違いありません。人格者というより、むしろに近かったのかも知れません。韋駄天いだてんという、仏教において天部に属する神がいます。走る神盗難除けの神として知られますが、そこから転じて、足の速い人の例えにされます。

羽田での予選会の時でも、ふらりと会場にやってきて、いきなり競技に参加して、賜杯を総なめにしていった三島弥彦こそ、まさしくいだてんと呼ぶべき人物です

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