田畑政治の人物像に迫る!東京オリンピック開催の立役者なのはなぜ?

田畑政治たばたまさじって誰ですか、どんな人物ですかって、ちょっと前までだったらきっとほとんどの人はそう思いますよね。現在の静岡県浜松市で生まれ育った田畑政治は、地元では昔から名の知れた人だったみたいですが、平成最後NHK大河ドラマが始まるまでは、一般的にはさほど注目されるべき人物ではありませんでした。

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目次

大河ドラマの主役

平成最後のNHK大河ドラマとは、第58作目であるいだてん~東京オリムピックばなしのことです。ただし、関係があるのはいだてんの方ではなく、サブタイトル的な方の、東京オリムピックという部分です。日本、否、アジアで初めての東京オリンピック開催に尽力した人として俄かに脚光を浴びています

もうひとりの主役

因みにメインタイトルらしき部分のいだてんは、日本マラソンの父と称された金栗四三かなくりしそうのことで、このドラマは主に前半が金栗四三後半が田畑政治が主人公となる、主役が二人いる物語です。

ところで、このメインタイトルらしきいだてんですが、いだてんとは本来インド古来のバラモン教の神ですが、のち仏教に取り入れられて伽藍の護法神となった韋駄天いだてんのことです。

仏舎利ぶっしゃりを盗んで逃げ去った捷疾鬼しょうしつきを追いかけて取り戻したという俗説から、韋駄天はよく走る神、或いは盗難除けの神とされました。それが転じて、足の速い人の例えとして使われるようになり、非常に速く走ることを韋駄天走りというようになった訳です。

本当の主役?

しかし韋駄天は、捷疾鬼をどのくらいの距離追いかけたのでしょうか。このドラマの、いだてん=金栗四三という設定により、韋駄天=長距離ランナーという印象付けまでされてしまいそうですが、果たしてそうでしょうか。

もちろん長距離であれ、記録が早ければ足が速いということに変わりはないでしょうが、一般的には短中距離くらいを走り切る人を見た方が、足の速い人と思うのではないでしょうか。

そういう意味において、このドラマに登場するもうひとりの日本人初オリンピック出場選手である、三島弥彦みしまやひここそが韋駄天の名に相応しいと私は考えるのですが、残念ながらこのドラマの主役ではありません。

田畑政治の人物像

田畑政治と金栗四三は全く別の人物であり、田畑政治と三島弥彦も当然別人ですが、その人物像はよく似ています。両者とも裕福な家庭で育ち、文武両道で勉強も運動も良くできました。どちらも現在の東京大学を卒業していますが、運動面においては、マルチにできて特に陸上でオリンピックにまで出場した三島に対し、田畑は水泳界で活躍しました。

生い立ち

田畑政治は明治31(1898)年12月1日、静岡県の浜松町成子(現浜松市中区成子町)で生を受けました。父である田畑庄吉は、八百庄商店という酒造業を営んでいて毎年の高額納税者でもあり、その土地の郷士でもありました。故に経営者の顔を持ちながら議員も務めていました。その二男として生まれたのが政治です。

政治は生まれながらにして裕福な家庭の子であり、浜名湖近辺に別荘があって、休暇の度にここに来ていました。特に夏の時期には、小学校に入る前から、毎日のように浜名湖で泳いで過ごしていました。

それは母の気遣いからでした。祖父も父も結核で早世していることから、子供たちの健康のためにやらせていたのです。

浜名湖辺りは元来水泳の盛んな地域で、遠州学友会水泳部という水泳クラブがあり、そのクラブのメンバーでもあった政治は、やがてそこのエースとして活躍する程になりました。

学生時代

一方で勉強も良くでき、地元の南尋常小学校から旧制浜松一中(現浜松北高等学校)に進み、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学に進学していますが、旧制中学校4年生の時、大病を患ってしまいました。

盲腸炎と大腸カタルを併発してしまい、父親も祖父も短命であった政治は、これ以上泳ぎ続ければ死ぬと医者に言われ、即座に泳ぐことを断念しなければなりませんでした。

しかし水泳を諦めた訳ではありませんでした。競技者として続けていくことはさすがにできませんでしたが、それならばと、指導者として水泳に関わり続けることを心に決め、水泳指導者としての日本一を目指したのです。

そう決めてからの田畑政治の行動は非常に早いものでした。実際浜松中学校を指導者としてすぐに大会で優勝させました。そして次の目標を、浜名湖を日本一の水泳王国にすると決め、周辺の中学校水泳部などを統括する浜名湾遊泳協会を立ち上げました。大正5(1916)年の話です。この時点より、大規模な選手育成を開始し始めました。

そしてその後一高を経て東京帝大に進学しても、休みがあるたびに浜名湖へ戻り、後輩の指導を続けながら、水泳界全般の普及と発展に努めたのです。

帝大時代には、浜名の弁天島での全国大会を企画し、地元の名士達と掛け合って湖面の一角を木枠で囲んだプールを作らせて、全国競泳大会を見事開催させました。

就職直後

大正13(1924)年に東京帝国大学を卒業すると、田畑政治は東京朝日新聞に入社しましたが、相変わらず暇を見つけては浜名湖に帰って、水泳指導に勤しみました。

ところで、明治45(1912)年開催のストックホルムオリンピックへの日本人初参加を機に、嘉納治五郎かのうじごろうが尽力して設立された大日本体育協会は、やがて陸上競技と水泳が中心となって発展していきましたが、この頃競技ごとに組織を作る動きが盛んになり、水泳界においては、大日本水泳競技連盟が発足しました。

田畑政治は、東海地方の代表者としてその発足に加わり、その年東京朝日新聞に入社して社会人になったばかりなのにもかかわらず、この年連盟の理事に就任したのです。

オリンピックにかける情熱

東京朝日新聞入社後の田畑政治は、政治部に配属されていました。そのおかげで時の有力政治家にも顔を知られ、やがて懇意になっていきます。戦後首相となる鳩山一郎はとやまいちろうにも目を掛けられるようになりました。

水泳に没頭する姿に対して、記事など一度も書いているところを見たことないとまで言われた田畑ですが、本業での仕事ぶりが有能であったからこそ、オリンピックに対する自身の夢も、叶えさせていくことができたのでしょう。

戦前

オリンピックの日本人水泳選手は、大正9(1920)年開催のアントワープオリンピックですでに派遣されていましたが、競泳代表選手は、外国人選手のクロールの泳ぎを見て、日本人との泳法の違いに衝撃を受けて帰ってきました。

その歴然とした差を思い知った田畑は、すでに帝大時代には浜名湖での指導において積極的に西欧の泳法を取り入れ、世界を視野に入れていました。

そして大日本水泳競技連盟理事に就任し、日本水泳界を牽引する中心的立場となってからは、オリンピック第一主義を掲げ、昭和3(1928)年開催のアムステルダムオリンピックを目指していきます。

田畑は水泳競技の強化のために、新聞記者としての顔を活かします。鳩山一郎を通じて、時の大蔵大臣高橋是清たかはしこれきよから水泳競技への補助金支出の約束を取り付け、アムステルダム大会に10人もの選手を派遣させたのです。

その結果、男子平泳ぎ200mで金メダルを獲得、他に銀メダル1個に銅メダル1個と、素晴らしい成績を残すことができました。

その後も田畑のオリンピックへの情熱は冷めるどころか回を追うごとに熱くなっていき、次の昭和7(1932)年開催のロサンゼルスオリンピックでは金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個を獲得し、世界中に水泳大国日本をアピールすることに成功します。

その次の昭和11(1936)年開催のベルリンオリンピックでは金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個を獲得し、水泳大国日本の地位を世界中に知らしめたのです。

戦後

ベルリン以降は第二次世界大戦の影響で、二大会が中止になました。ですから次の大会は、戦争後の昭和23(1948)年のロンドンオリンピックまで、ベルリンから数えて12年も待たなければなりませんでした。

その間戦争の影響を受けて、国益に何の役にも立たないと見做されたスポーツ競技は禁止されました。日本のスポーツ界全般に亘って軍部の統制下に置かれ、各競技団体は解散を余儀なくされ、大日本体育協会を改組した、大日本体育会に集約されました。

大日本水泳競技連盟も当然解散を命じられていましたが、田畑はこれに従わず、実質的な活動はないものの、組織自体は秘かに残しておきました。

昭和20(1945)年8月に終戦を迎えてから僅かに2か月後の10月にはもう動き出します。名称を日本水泳連盟と改め、その理事長に就任、早々と国際水泳連盟への復帰を目論みます。

翌昭和21(1946)年には大日本体育会の常任理事となり、翌昭和22(1947)年には日本オリンピック委員会(JOC)の総務主事に就任して、翌年のロンドンオリンピックを虎視眈々と視野に入れていました。

しかしそのロンドンオリンピックですら日本人は参加できません。主催国であるイギリスが、敗戦国であったドイツと日本の参加を拒否したためです。日本は、特に田畑のいる水泳界においては、出場する道を精一杯模索しましたが、万策尽き果てます。

結局日本人が次に参加したのは、ベルリンから歳月を経ること16年、昭和27(1952)年開催のヘルシンキオリンピックとなります。

一方新聞社の田畑としては、戦後の戦争責任問題で社の幹部が追放となった社内で、昭和22(1947)年には取締役、昭和24(1949)年には常務取締役にまで昇り詰めていましたが、その後公職追放が解除となると社内の勢力争いに巻き込まれてしまい、昭和27(1952)年に朝日新聞を退社します。

新聞社を辞め水泳とオリンピックのことに専念出来るようになった田畑は、ヘルシンキオリンピックには日本選手団団長として乗り込みます。

水泳の選手団には、出場を拒否されたロンドンオリンピックの開催日に合わせて、東京の神宮プールで開催された日本選手権で、世界記録を更新してフジヤマのトビウオとの異名を持った古橋廣之進ふるはしひろのしんもいましたが、残念ながらヘルシンキでの活躍は、銀メダル3個だけという、物足りない成績に終わります。

田畑は次のオリンピックである昭和31(1956)年開催のメルボルンオリンピックでも日本選手団団長として参加し、競泳では金メダル1個、銀メダル4個とそれなりに奮闘はしましたが、それでも黄金期と比較すれば不振を抜け出せていないと言わざるを得ませんでした

東京オリンピック

日本人が久々に参加し、自らも開催地を訪れたヘルシンキより帰国した田畑政治は、突拍子もないことを言い出し、皆を驚かせます。東京でオリンピックを開催すると言い出したのです。

戦前、東京でのオリンピック開催が決定していたものの、戦争の影響で幻となったことはありましたが、大戦に敗れて荒廃した日本は、まだまだ何もかもが復興途上でしたが、フィンランドでのオリンピックをその目で見てきた田畑は、同程度の規模での開催ならば、日本でも十分に可能であるという確信をもって帰ってきたのでした。

誘致成功

しかしそうは言ってもオリンピック開催には莫大な資金が必要となります。有言実行でいつも思い立ったら素早く行動に移す田畑政治は、時の東京都知事であった安井誠一郎やすいせいいちろうを説得し、東京都議会において招致を可決させました。また、同じく内閣総理大臣の岸信介きしのぶすけらも口説き落とし、衆議院での可決も得て、国家プロジェクトとして東京オリンピック招致がされることになったのです。

メルボルンオリンピック後には水泳界に内紛があって、昭和33(1957)年、田畑政治が日本水泳連盟の会長を辞任してしまう事態となりますが、それが反って田畑をオリンピック招致プロジェクトに専念させる結果となりました。

昭和39(1964)年のオリンピック招致を狙う田畑は、国際オリンピック委員会(IOC)会長のブランデージのアドバイスに従い、昭和35(1960)年の開催国としても立候補することにしました。

なぜならばここで東京オリンピックをあらかじめ猛烈にアピールしておくことができるからです。そうすることによって、本命の年の開催招致合戦を、より有利に進めようとしたのです。

このような数々の慎重で繊細な作戦が功を奏し、昭和34(1959)年、最後の舞台となるIOC総会でのプレゼンテーションが絶賛されて、日本はついにオリンピック開催国という栄誉を勝ち取りました。

開催前の挫折

さて、田畑は東京オリンピックの開催が決定すると、すぐに東京オリンピック組織委員会を設立し、自ら事務総長に就任しました

ヘルシンキ、メルボルンと二大会続けて選手団団長でいしたが、次の昭和15年のローマ大会では選手団団長を他者に譲り、田畑は文字通り東京オリンピック開催に集中するのでした。

ところが物事というものは、何もかもが順調に進むということなどはなかなかないもので、田畑政治の場合も例外ではありませんでした。

東京オリンピック組織委員会の事務総長として着実に準備を進めていた田畑でしたが、当時のオリンピック担当大臣であった川島正次郎かわしましょうじろうとの折り合いは宜しくなく、事あるごとに対立していました。

そしてとうとう、昭和37(1962)年のインドネシアのジャカルタで開催されるアジア競技大会への出場参加を巡って事態は深刻化しました。

東京オリンピックを期待する世間からも訝しがられ、川島大臣の恰好の餌食にされてしまったことで、田畑のオリンピックに関する職責は、ことごとく剥奪されていき、東京オリンピックが実現する時点で残った肩書は、東京オリンピック組織委員会の委員のみ、単なる一委員に過ぎませんでした。

ここまで思い通りに生きてきて、順風満帆であった田畑にとって、このオリンピック開催直前でのつまずきは、初めて味わう挫折感であったことでしょう。それでも田畑は、一委員になった以上は、委員会での発言は控え、選手個々人の激励に走り回りました。

そして昭和39(1964)年、迎えた東京オリンピック。田畑は東京オリンピック組織委員会の最前列に位置し、身を乗り出しながら選手たちを応援し、無事東京オリンピックが開催された喜びにひとり浸ったのでした。

その後

東京オリンピックは成功裏に幕を閉じましたが、競泳日本代表は水泳大国の栄華を誇っていた頃の面影さえも見ることが出来ず、辛うじて男子800mリレーで銅メダルを取っただけで、惨敗を喫したことに田畑は強い危機感を覚えました。

そこで田畑は、水泳大国日本の復活をかけ、日本水泳連盟の改革に着手しました。10年計画を掲げて室内プールを建設したり、長期的ビジョンの下で、才能ある若い世代の人材育成に力を注いでいきます。

それからほんの暫く経った昭和40(1965)年、田畑は日本体育協会の理事に就任、翌年には札幌冬季オリンピック組織委員会顧問に迎えられ、オリンピック運営の最前線に復帰できました。

札幌冬季オリンピックは昭和47(1972)年の開催で大成功をおさめましたが、その開催にも尽力した田畑は、翌昭和48(1973)年にJOCの委員長に就任し、中国のIOC復帰に貢献したのでした。

おわりに

昭和55(1980)年のモスクワオリンピックでは、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、日本は選手の派遣をボイコットしました。

田畑はこの難しい局面を見事に乗り切りましたが、そんな頃にはもうパーキンソン病を患っており、昭和57(1982)年には食べ物を喉に詰まらせ、呼吸困難による麻痺のため車椅子生活を余儀なくされてしまいました。

昭和59(1984)年のロサンゼルスオリンピック開催直前に危篤となりましたが、オリンピックが始まると奇跡的に復活します。それは前回のモスクワ大会の報復的意味合いで、ソ連や東ヨーロッパ諸国がボイコットしながらも開催されたオリンピックであり、田畑としてはどうしても事の決着を見ておく必要があったのでしょう。

開会式から閉会式までの全てを見終えた僅か2週間後、安心したかのように入院先病院で息を引き取りました。昭和59(1984)年8月25日、享年85歳。

同日、オリンピックに人生を捧げた田畑政治に、正四位勲二等旭日重光章受章下賜かしされたのでした。

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