伊賀一ノ井松明調進行事。伊賀の峠を越えて、奈良まで続く松明の道。

伊賀いがは、三重県西部の上野盆地一帯に当たる地域です。一ノ井いちのいは、その地域である、三重県名張市にある地名で、名張市赤目町一ノ井のことです。

松明たいまつとは、火をつけて明かりとして使うための木切れであり、松の脂の多い部分で作ります。そして調進ちょうしんとは、品物を用意して献上することです。

つまり、伊賀一ノ井松明調進行事いがいちのいたいまつちょうしんぎょうじとは、伊賀一ノ井で行われる、松明を調進する行事ということです。当たり前と言えば当たり前ですが、こうして言葉の意味をひとつひとつ理解出来てこそ、当たり前と言えるのではないでしょうか。

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目次

松明調進行事

この行事は、毎年3月12日に行われます。3月12日という日であることには、訳があります。この時期には、奈良東大寺二月堂で、修二会しゅにえという一大法会ほうえが行われますが、特に3月12日に行われるメインイベントをお水取りと言ます。

修二会の期間には、重さ40kg、長さ7mの松明を10人の練行衆がそれぞれ1本ずつ抱えて、振り回しながら回廊を走ります。その間約20分、お松明と呼ばれるこの行事は迫力十分です。

ところがお水取りの日である3月12日には、松明が更に巨大化します。数も一つ増え11本となります。松明は薄い松の板を籠のように編んだもので、重さは70kg、長さは8mあります。11本が全て回廊を渡り切るのに、約1時間も費やすこの行事は、お松明でも特に籠松明かごたいまつと呼ばれて、参拝者も最も多い日となります。

つまり、この東大寺の修二会のお松明で使われる松明こそが、一ノ井から調進される松明であり、それをお水取りの日である3月12日に奉納する訳です。

松明の道

この松明は、実は松の木ではありません。三重県名張市赤目町一ノ井にある、極楽寺所有の山から樹齢100年ほどの節のないひのきを伐採したものです。

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800年近くも続いていると言われるだけあって、松明の形やくくり方には古来からの厳格な規格があり、それに従って20束の松明に仕上げます。

そのまま一度極楽寺本堂に納められ、その後東大寺に納めるため、お水取りの当日である3月12日、松明木を担いで奈良県との県境にある標高約460mの笠間峠を越えます。東大寺までの約35㎞の険しい道のりは、まさに松明の道と呼ぶに相応しい峠道です。

観音様に懺悔する事で世の平和と幸福を願う修二会であるお水取りは、1200年以上も前から続いています。その歴史と伝統の重みに恥じないように、厳選された檜を、皆全て、手作業で整えるのです。

松明調進の始まり

その昔、この土地に道観という長者がいて、富裕で知られていましたが、反面とても冷酷で村人から疎まれていました。しかし妻子が病気になったりして、結局村を出て、山中に移り住みました。

晩年になって改心し、死の間際に、私有の土地を利用して東大寺のお水取りの松明を作り寄進することを遺言したことに始まったとされているこの行事は、当時の様子を今でも垣間見ることができ、名張市の無形民俗文化財となっています。

かつては大勢の村人たちが約35kmの道のりを野を越え、山坂を越えて運んだとされていて、その様態は、現在も地元の人たちによって大切に受け継がれています。

しかし実際のところは、3月12日の早朝に極楽寺本堂で道中安全祈願の後、徒歩で出発し、笠間峠を徒歩で越えるものの、その後暫くして自動車に乗って移動しています。

奈良市内に入ってから再び徒歩で東大寺へと向かい、奉納することで、現在では古来からの形式を整えているようです。

おわりに

そこで調進された松明木ですが、3月12日に持って行ったからと言ってその日のイベントに直ちに使われる訳ではありません。寄進された檜の松明木は、東大寺で1年間保管し、十分に乾燥させた上で、用いられます

ですから実際用立てられるのは丸一年経過した次のお水取りの日です。そこのところは、誤解のないようにしておかなければなりません。なにせ松まつですから、どうしても待つまつ必要があるということです。

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