初詣では願い事をしてはいけない、なんて話がある様ですが、そんなのは根拠のない都市伝説に過ぎません。天の御心は慈悲の気持ちで満ち溢れています。新年早々願い事をしたからといって、疎まれよう筈はありません。
そもそも初詣というのは、読んで字の如く、初めて詣でる事です。即ち、年が明けてからの初めての参拝という訳です。 そこで昨年一年間平穏に過ごせた事に感謝の意を伝えたり、新たなる一年間の無事と平安を祈願したりするのです。
但し、願い事を快く聞いてはくれますが、聞き入れてくれるとは限りません。それは一体何故でしょうか。
目次
初詣の由来
初詣はいかにも日本の伝統行事らしく、実際古(いにしえ)の時代より存在しました。しかしその原型は、「年籠り」と呼ばれるものです。
年籠りは、大晦日の夜から元日の朝にかけ、氏神の社に祈願するために一家の家長が行っていました。年籠りには更に2種類がありました。即ち、大晦日の夜に行う「除夜詣」と、元日の朝に行う「元日詣」です。
江戸時代になると、その年の恵方に当たる寺社を詣でる「恵方参り」といったことも行われる様になり、神事に限る事なく、広く一般に普及していきました。
ただ、それでもまだ現代のように、初詣を一般的な年中行事だとは認識していなかった様で、今の様な「初詣」が習慣化したのは意外と新しく、明治時代に入ってからなのです。
お薦めの初詣
|
この様に、初詣の始まりは神事であり、氏神様への年籠りです。年籠りには除夜詣と元日詣のふたつがありますので、原理主義に拘る人であれば、大晦日の夜中と元日の午前中の2回、氏神様のいる生まれ故郷の神社へ参拝するべきでしょう。
ある調査によれば、現代においても実際に、地域の氏神様に初詣に行く人の割合が一番多いそうです。故郷を離れて遠方へ出ていった人達も、冬期休暇で帰省されている場合が多いのが要因でしょう。
日本に仏教が伝授され、広く庶民に普及してからは神仏の区別も曖昧になっていきました。江戸時代に恵方参りが行われた様に、寺社両方に参拝に行く様になりました。
更に近代以降はキリスト教はじめ様々な宗教が、信仰の自由の下認められていますので、参拝の方法も多種多様です。
神社、仏閣、教会、モスク…
初詣の主たる目的は、この一年間の出来事を報告し、新たな一年を心安らかに過ごせる様に祈願する事です。その旨に重きを置けば、原理原則に拘る必要もなく、参拝する場所は、神社だろうと寺院だろうと、はたまた教会だろうがモスクだろうが、結局はどこだっていいのです。
大切なのは一年の始まりに際して参拝しようとする気持ちです。そしてその気持ちも、遊び半分であるとか、中途半端であるとか、他力本願であるとかではダメです。神仏への感謝の念と、自分の意志の強さを示さなければいけないのです。
なぜならば神様も仏様も忙しい身の上なのです。正月早々大勢の人に願い事をされて、全ての人を相手にはしていられないのです。
だから願い事をするに際して最も重要なのは、その夢を実現させるために自分自身も努力を惜しまないという姿勢を鮮明に示す事です。
他人に任せるだけで自分は何もしない様では、神仏に限らず、誰からも相手にはされません。むしろ神仏は黙って話を聞いてくれるだけでも有難い存在だと言えるのではないでしょうか。
ベストな初詣
とは言え、寺社による正月ならではの期間限定の催しも盛んですから、参拝だけが目的ではなく、それを楽しみにして出かける人もいます。
そこでおみくじ・お守り・絵馬・お札・破魔矢といった「縁起物」を買って楽しむという行為は、信心深い気持ちの表れと言ってもいいでしょうから、決して意味のない事ではありません。
結局ベストな初詣とは何かというと、どこそこの神社は何々のパワースポットだとかいった様な場所を限定するのではなく、どこそこの寺院は何々のご利益で有名だとかいった様な風評で決めるのでもありません。
自分自身のマナーとモラルが兼ね備わった参拝ができた時、それをベストな初詣と思えばいいのではないでしょうか。
まとめ
初詣の最たる目的は、新たなる年の始まりにおいて、この先の一年間の無病息災、平安無事を祈願する事です。これまでの一年間についての報告や、お世話になった感謝の念を伝える事も忘れずにしましょう。
何か特別な決意があって、その願い事を叶えてほしいのなら、自分の努力次第で、頑張って手を伸ばせば実現可能な望みを伝えます。そのために邁進する事を誓って下さい。
とは言え、正月特有の縁日風情を楽しむ目的で初詣に出かけるのも決していけない事ではありません。それでついでに境内に立ち寄ったとしても、結果的に神仏に手を合わせれば、それはそれで結構な話ではありませんか。