平成31年4月30日。今上陛下は生前退位ではなく、譲位されるのです。

平成31年4月30日、それは平成最後の日。この日をもって平成の時代は幕を閉じ、翌5月1日からは新しい元号が始まります。でもそれはなぜか、深く考えたことはありますか。

それは、皇位継承こういけいしょうが行われるからなのは皆さんご承知のことと思いますが、では皇位継承が行われるとなぜ元号が改められるのでしょう。それは、元号法げんごうほうという法律によって、そのように定められているからです。

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目次

元号法によって平成31年4月30日に平成は終わる

元号法は、元号について定めた法律です。本則2項と附則2項から構成されていますが、その第2項に、皇位継承のあった場合にのみ元号を改める旨が記載されています。所謂、一世一元の制いっせいいちげんのせいです。

この法律は昭和54(1979)年6月12日に公布・施行と、比較的新しい法律ですが、この考えの基には、大日本帝国憲法下において明記されていた、旧皇室典範第12条の元号に関する規定があります。

第二次世界大戦後は現行の日本国憲法にとってかわりましたが、新しい皇室典範には元号関連の条文が消えてしまいました。それ以降、慣例的に元号を使ってはいましたが、法的根拠はありませんでした。

それ故次第に、元号は不合理で、何一つ科学的な意味がなく、民主主義にそぐわないので、元号など廃止すればいいという意見も聞かれるようになりました。

やがて昭和天皇の高齢化も進み、次の元号のあり方について懸念されるようになりました。そこで昭和51(1976)年に世論調査を行った結果、国民の9割弱が常日頃元号を使用しているとの調査結果を得て、その事情も鑑みて、先に述べた元号法を成立させたのです。

一世一元制の法的整備

大化の改新たいかのかいしんは、大化2(646)年の出来事として、歴史の授業で習います。その内容については覚えていなくても、その言葉自体は多くの人が知るところでしょう。

その、大化たいかに始まる元号は、初期の頃には断続的に、そして701年に大宝たいほうと改められてからは継続的に使われ続けてきて、現在の平成に至っています。

明治以前では、天皇の在位中に何度も改元することもありましたし、逆に新しい天皇になってもそのまま元号を使い続ける場合もありました。なぜなら、飢饉や天変地異の発生または疫病の流行、或いは逆に吉事があったなどの理由によって改元が頻繁に行なわれていたからです。

それが、江戸幕府を倒しその後の戊辰戦争の結果として新政府の座を手中にした明治政府によって、明治と改元された時に一世一元の詔いっせいいちげんのみことのりが発布され、現在にまで至っているのです。

ただ、明治天皇めいじてんのうの在位が明治元年からかといえば、実はそうではありません。明治天皇は、御父君の孝明天皇こうめいてんのう(第121代、在位 : 弘化3(1846)年2月13日~慶応2(1866)年12月25日)が崩御された慶応2(1866)年12月25日に天皇になられています。そして慶応は4(1868)年9月8日まで続きます。

ただし慶応4年は、一世一元の詔の発布によって抹消されることとなりました。なぜならばこの改元の詔書には、慶応4年を明治元年と為す、即ち慶応4年1月1日に遡って明治元年とするという記載があったからです。

いずれにせよ一世一元の制が始まったのは明治天皇からですが、明治天皇自身は一世一元ではなかった訳です。

それはさておき、明治新政府は欧米の列強諸国を手本にして、近代化のための法整備を急務としました。そして明治政府によって国家の元首としての役目を担わされた天皇も、法律によって定められる存在となりました。

今上陛下は皇太子殿下に天皇の位を譲位される

こうして出来上がった大日本帝国憲法の下では、皇位継承が行われなければ元号は改まりません。皇位継承とは、皇位、つまり天皇としての位を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることです。

そうです、譲るのです。あくまでも位を譲るのであって、決して位から退くのではありません。両者では意味合いが違います。退位たいいとは、継承者の有無に関係なく、その地位を手放すことで、しばしばヨーロッパであったような、政争に敗れての強制的なものという印象です。

また、退位という言葉の使用には別の問題が発生します。皇位継承には空白があってはいけませんし、実際に長い歴史の中でそういったことはありませんでした。しかし退位となると、それで一旦終了という感が拭い切れません。これは、この隙を狙って、国家転覆の策略すら計られかねない、極めて危険な状態なのです。

たとえ皇太子殿下が翌日5月1日、そのお立場を受け継がれるとしても、ではそれは何時何分なのか、そして今上陛下が4月30日に退位されるとして、それは何時何分なのか、そこを突き詰められれば極めて曖昧です。

言葉の上でも大変不自然です。平成28(2016)年7月13日の今上陛下のご意向を示す主要新聞各紙や放送各局の報道では、「生前退位」という表現が用いられていましたが、生前という言葉はその人物の死後を前提として使うのが普通です。一般的に言っても存命の人物に対して、生前という言葉は本来使用することはないでしょう。

だから極めて非礼な話なのです。存命の人物に対しては通常譲位じょういとするのが言葉の上でも正しいのです。

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皇后陛下の驚き

この報道に関して、皇后陛下が同年10月20日に発表したお誕生日の談話の中で、違和感を示されました。

新聞の1面で生前退位という大きな活字を見た際、皇后陛下は大きな衝撃を受けられました。その理由は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったからです。

私の感じ過ぎであったかも知れないと断りを入れながらも、一瞬驚きと共に痛みを覚えたとのことで、お立場上直接的な言い方はされませんが、それは違和感というよりも不快感であり、その不快感は天皇陛下の不快感でもあることは間違いないでしょう。

伝統儀式の重みは杓子定規な法的解釈で語るべきではない

法律というものは、いろいろなことがきめ細かく定められているから、大変便利なものである一方、そこに書かれていることが全てであるかのごとき杓子定規な考えに陥ると、逆に大変厄介なものになってしまう恐れもあります。

今上陛下の譲位に関して、報道機関が奇妙な造語を編み出して使ったのも、譲位という言葉自体も、それに関する取り決めも現行法になかったからでしょう。また譲位といえばあたかも自由意志が反映されているように受け止められかねず、国家の象徴としては宜しくないのではないかと邪推するのかも知れません。

先日ドイツのメルケル首相が来日しましたが、天皇陛下は2月5日、メルケルを皇居に招いて懇談されました。その際メルケルが新年の一般参賀に大勢の人が集まる様子をドイツのテレビで見たという話をしたのに対して、これが陛下にとって最後の一般参賀であったためと説明されました。

注目すべきはその後の、最後という意味の補足的ご説明で、この春には光格天皇こうかくてんのう(第119代、在位 : 安永8(1780)年11月25日~文化14(1817)年3月22日)以来約200年振りに譲位すると付け加えられたことです。

陛下自らが譲位という言葉をお使いになられたということは、陛下御自身が、脈々と続く皇室の伝統の誰よりも重く受け止められていらっしゃるということに他なりません。

即位の前に践祚がある

今上陛下の退位という、誤った言葉の使われ方について述べてきましたが、実は皇太子殿下の5月1日の即位についても、本来正しい表現とは言えません。皇太子殿下は5月1日に践祚せんそされ、10月22日の即位礼正殿の儀をもって即位そくいされるのです。

践祚と即位は本来違うもので、践祚という言葉は旧皇室典範には記載されていましたが、現在の皇室典範ではその文字は削除され出てきませんので、法的根拠がないがために使おうとしないだけなのです。

たとえば先程の明治天皇の場合、明治天皇は慶応2年12月25日に践祚され、慶応4年8月27日に京都御所における即位礼紫宸殿の儀をもって即位された訳です。恙なく即位したことにより、9月8日に元号を改め、その年の1月1日に遡って明治としたのです。

践祚は、天皇の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御、或いは今回のような譲位によって速やかに行われます。一方で即位とは、位に就いたことを内外に対して明らかにすることです。

長い歴史の中では両者の区別がなかった時代もあったり、践祚しただけで即位式を行っていない中恭天皇ちゅうきょうてんのう(第85代、在位 : 承久3(1221)年4月20日~承久3(1221)年7月9日)の例もあったりしますが、次の天皇になられる現皇太子殿下の場合は、明らかに践祚する日と即位する日が予定されています。

言葉というものには意味があります。時間が経過すれば少しずつ意味が変化していく言葉もあるでしょうが、伝統を誇るに相応しい言葉は容易に本来の意味から逸脱させるべきではないし、消滅させるべきでもないと思います。

おわりに

江戸末期の幕末の志士たちが作り上げた今日の日本。それから天皇の一世一元で明治、大正、昭和、平成と続き、その平成が平成31年4月30日で終わろうとしています。

その日のために、幕末の志士たちになりかわって、つべこべ言わずに声高に譲位譲位と叫びましょう。 それこそが本当の尊皇譲位そんのうじょういではありませんか!

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