令和元年5月1日、新時代の始まり。令和の御代の天皇について知ろう。

平成31(2019)年4月1日、元号げんごう令和れいわに改めるという本則の政令せいれい第百四十三号(元号を改める政令)が制定され、今上陛下きんじょうへいかの御署名を経て、同日公布されました。

同政令によれば、天皇の退位等に関する皇室典範特例法てんのうのたいいとうにかんするこうしつてんぱんとくれいほう施行の日の翌日が、この政令の施行日とされています。つまり平成は31年4月30日で終わり、翌日は令和元年5月1日改元かいげんされるのです。

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元号

元号は有限の紀年法きねんほうであり、そもそもの始まりは、君主が空間だけでなく時間まで支配するという思想に基づくものからで、皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直されますが、明治以降日本では一世一元いっせいいちげんとなっています。

この君主の支配というそもそもの思想が、民主主義にそぐわないとして元号使用に反対している勢力もあるようですが、我が国においては、天皇が国家統治の実権を握っていた事実は、草創の時代を除けば殆どないことは歴史上明白です。ましてや、戦後においてはなおさらのことです。

改元は煩わしいとの声も聞こえますが、改元による時代のリセットこそが正に元号使用のメリットであり、歴代の日本の天皇は、常に国家の安寧を第一に願って改元を重ねてきました。

なによりも現在元号を使っている国は、世界中探しても日本だけなのです。元号という有限の歴史ではありますが、それを繰り返して悠久の歴史としているのは日本だけであることに、何の嫌悪感を抱く必要があるのでしょうか。

なお、台湾では現在中華民国ちゅうかみんこくという紀年法が用いられていますが、これは元号という概念のものとは異なります。因みに西暦2019年は中華民国108年で、一般的には中華を省略して民国108年という言われ方をしています。

令和の幕開け

今上陛下は記紀ききに記される初代神武天皇じんむてんのうから数えて125代目になります。神話に基づく初期の頃に信憑性があるかないかは別にしても、脈々と続く皇統が今に至るまで男系男子に受け継がれてきています。

では日本に女帝は存在しなかったのかと言えば、決してそんなことはありません。天皇は125代続いていますが、人数は123人です。なぜならば、そのうち2人は重祚ちょうそしているからです。その極めてまれなケースの2人が2人とも女性であり、その4代を含めて全部で10代が女帝です。

ただし、女帝とはあくまで女性天皇のことであり、女系天皇のことでは決してありません。女性天皇と女系天皇とでは、話の本質が全く違います。ですからそこを混同して議論してはいけません。女帝であっても全員男系皇統の血を引いた女帝であり、女帝が男系皇統以外の血筋のものと宮家を作って子孫が天皇になったことなどは、悠久の歴史上一度もありません。

そしてそれは現在においても、皇室典範こうしつてんぱんという法律に、皇位継承こういけいしょう資格は皇統に属する男系男子のみと明記されていますし、その継承順位についても細かく記載されています。間もなく今上陛下が皇太子殿下こうたいしでんか譲位じょういされて平成が終わり、元号が令和に改められて皇太子殿下が新しい天皇になられるのは、今ではこのような歴とした法的根拠もあります。

令和の天皇

皇太子殿下徳仁親王なるひとしんのうは、天皇皇后両陛下の第一皇子であり、昭和35(1960)年2月23日、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にてご誕生されました。同年2月29日、命名の儀めいめいのぎにおいて、祖父であられた先帝陛下せんていへいかが、四書五経ししょごきょうのうちの中庸第32章にある「浩々たる天」、「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠として、浩宮ひろのみや徳仁とご命名されました。

皇室には、平安時代から続くとされる、授乳を母親とは別の女性に任せる乳人制度めのとせいどの慣例が受け継がれてきていて、今上陛下の幼少時までは、そのような乳人の女性が存在しました。

しかしながら徳仁親王にはそれまでの皇室の慣例は踏襲されず、乳人のような専任の養育係が置かれずに育たれました。それによって一般国民の感覚に近い、新しい皇室像が形成されることになりました。

昭和39年(1964)4月、4歳で学習院がくしゅういん幼稚園に入園されます。その後も大学そして大学院まで一貫して学習院を学び舎とされます。

そもそも学習院とは、戦後こそ民営化されて私学校となりましたが、前身は旧宮内省が外局として設置した国立学校であり、華族のための学校です。さらに遡れば、京都御所内にあった学習所です。

徳仁親王は学習院での正規の授業のほか、御所におけるご進講を受けられて、いわゆる帝王学を学ばれていったのです。

昭和64(1989)年1月7日、先帝陛下が崩御ほうぎょされ、今上陛下が践祚せんそしたことに伴い、28歳で事実上の皇太子となられました。そして平成3(1991)年2月23日の31歳の御誕生日に、立太子の礼りったいしのれいを執り行って名実ともに皇太子であられることを内外に披露したのです。天皇の位でいえば、前者が践祚、後者が即位そくいに該当するでしょう。

平成5(1993)年6月9日、宮中三殿きゅうちゅうさんでん賢所かしこどころ結婚の儀けっこんのぎが執り行われ、御成婚と相成ります。皇太子殿下32歳の時です。皇太子妃こうたいしひとなられた雅子妃殿下まさこひでんかとは、昭和61年(1986)10月18日、来日中のスペイン王女の歓迎パーティーで知り合い、身染められたとのことです。

平成13年(2001)12月1日、皇太子殿下41歳で敬宮愛子内親王としのみやあいこないしんのう降誕こうたんされます。現在高校生になられた愛子内親王はとても明るくて聡明な方で、立派に成長されています。それはご自身を厳しく律せられ、常に他人を気遣う皇太子殿下の振る舞いや考え方に接してこられたことが大きく影響されています。

そして平成31(2019)年4月30日の翌日、59歳で皇太子殿下は第126代天皇となられ、日本の悠久の歴史をまたその次へと繋げる重責につかれます。令和の幕開けです。天皇誕生日てんのうたんじょうびは2月23日になります。但し祝日の天皇誕生日は令和2年2月23日が初めです。なぜならば、令和元年2月23日という日は存在しないからです。

おわりに

近年皇位継承に危機感が募って、巷では女性宮家の設立容認の声が広がっています。そもそも皇室の男性優位的な制度が差別的で、男女平等の今の時代の考えにそぐわないという意見もあります。

しかしながら日本の歴史を振り返ってみれば、女帝は10代8人存在します。割合としては少ないものの、女帝を早い時期より受け入れていたことは間違いありません。差別どころか、寧ろ先進的な考え方の国家だったとも言えます。

ところが女系天皇となると、過去に一度もないのは事実ですが、これは何も差別という次元の低い話ではないと思います。繰り返しますが、女性天皇は存在してきましたから、男女差別などありません。

最初或いは初期の頃に女性天皇が現れて、そこで新たな宮家が誕生して、違う血筋のものが皇位を継いでいれば、男だの女だのと言った議論など今更生じることなどなかったでしょう。

ところが最初の天皇が男性で、次の天皇も男性で、たまたまそれが5代10代と続いてしまったため、新たな歴史が始まってしまったのです。ですから、女系天皇を認めないのは差別でも何でもなく、単に日本人としてのアイデンティティーの問題で、歴史の重みというものを感じて理解出来ている人間か否かに尽きるのではないかと思います。

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