現職総理のイラン訪問!その託された使命を分かりやすく説明します。

令和元(2019)年6月12日、安倍晋三内閣総理大臣は3日間の日程でイランを訪問します。現職の総理大臣としては実に41年振りのことです。

しかも今回の訪問は、この半月程度の間に急にまとまりだした話のようです。40年以上の長い沈黙を破って日本の首相が突如イラン訪問を決めた背景には一体何があるのでしょうか。

それは紛れもなく、令和最初の国賓であるアメリカ合衆国トランプ大統領との会談です。トランプ大統領が安倍首相に、膠着したイランとの関係改善を託したのです。

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目次

イランという国

イランの歴史はとても古く、紀元前3000年頃からはじまります。そして有名なアケメネス朝をはじめとする数々の王朝がこの地に栄え、この地を統治してきました。

ペルシャというのは元々西洋人がつけた呼び名で、この地の人々は昔からイランと呼んでいましたが、それを正式に国名にしたのは1935年のことです。それでも王朝自体はまだ続いています。

そして1979年にイラン革命が勃発して、ついに王朝に終止符が打たれました。以降この国の正式名称は、イラン・イスラム共和国といいます。

イランと日本の関係

日本はイランと国交を樹立して90年になります。イランは親日国とされています。

第二次世界大戦後、イランはなおもイギリスの影響下にありました。イランには当時世界最大と推測されていた石油資源がありましたが、それらは全てイギリス資本の元にあったので、イラン自体が十分に潤う状態ではありませんでした。そこでイランは、1951年に石油の国有化を宣言します。

これに対してイギリスは反発します。中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明し、事実上の経済制裁や禁輸措置を執行したのです。これによってイランは更に態度を硬化させます。

戦争も辞さない非常に危険な状態となったのですが、この危機を救ったのが日本の民間企業なのです。

イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光興産社長の出光佐三は、イランに対する経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏にタンカーを派遣することを決意し実行しました。

いわゆる日章丸事件と呼ばれるもので、最近では百田尚樹氏の書いた、海賊とよばれた男という小説にもなり、更にはそれが映画化されて再び脚光を浴びています。

いずれにせよこの件は世界中のマスメディアに報道され、国際的な事件として知れ渡りました。石油を積んだ日章丸は、国際世論が注目する中、武装を持たない一民間船が浅瀬や機雷などを回避して海上封鎖を突破したのです。

イギリスは積荷物の所有権を主張して出光を提訴したり、出光に圧力を加えようと試みましたが、イギリスに同調する国々は殆どなく、やがてイギリスはイランの石油について所有権を主張できなくなっていき、結果として日章丸事件は、石油の自由貿易が始まるきっかけとなったのです。

因みに第二次世界大戦中、日本はイランと断交していましたが、日章丸事件の翌月である1953年11月に国交を再開させています。イランが日章丸事件に恩義を感じたのは明らかです。

イランとアメリカの関係

第二次世界大戦後のイランは、パフラヴィー朝の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが親欧米化路線を進め、近代化および西洋化のための様々な改革に着手しました。

その政策は欧米諸国から歓迎され、各国特にアメリカは、パフラヴィー皇帝に対する様々な支援を惜しみませんでした。

しかしイスラム色の薄い政教分離政策は、イスラム法学者の反発を招きました。そこでパフラヴィー皇帝は、イスラム原理主義者をはじめとする急進派を中心にした反体制派を、徹底的に弾圧したり投獄したりしたのです。

しかしこうした欧米追従の政策によって、国内に貧富の差が広がり深刻化したのは事実で、それによって皇帝に対する国民の不満は高まっていました。

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それが追い風となって、イスラム原理主義的な反体制派は、次第に貧しい農民や労働者階級からの支持を受けるようになりました。

その結果、1979年1月にイラン革命が発生し、帝政にかわるイスラム共和制を採用したイラン・イスラム共和国が樹立します。

新たなイスラム政治制度は、ウラマーと呼ばれるイスラム法学者による直接統治のシステムを導入するものであり、伝統的価値観に基づくイスラム的社会改革が行われたのです。

前政権への批判の矛先はアメリカにも向けられ、特にパフラヴィー皇帝が亡命先を転々とした挙句アメリカへ入国したことによって、両国の関係は最悪化しました。

イスラム法学校の学生らが反発し、テヘランのアメリカ大使館前で連日のように反米デモを行いました。政府もこれを黙認し、放置していたのですが、とうとう生たちの一部が塀を乗り越えて大使館の敷地内に侵入し、アメリカ大使館を占拠してしまったのです。

結局パフラヴィー皇帝はアメリカを出国し、1980年7月27日に最終的な亡命先となったエジプトのカイロで死去したことによって、占拠の根拠は失われ、両政府の水面下での交渉の末、1981年1月20日になってようやく人質が解放されたのです。実に444日振りでした。

人質は解放されたものの、両国間の国交は断絶されたままであり、更に3年後には、アメリカ政府はイランをテロ支援国家と指定し、経済制裁を行ってきました。

2002年にはイランでウラン濃縮施設が見つかりました。核兵器保有を懸念した欧米各国はイランと接触を図り、米英仏独ロ中の6か国とEUとの協議の末、2015年7月に包括的共同行動計画、いわゆるイラン核合意をイランと交わしました。

この時のアメリカの大統領はオバマです。前任のブッシュの時代には、悪の枢軸とまで呼ばれたイランでしたが、オバマ政権になってようやく、両国関係に改善の兆しが現れたのです。

中東とトランプ大統領の関係

ところが2019年5月8日、現政権が中東情勢を再び大きく不安定化させる決定を行います。トランプ大統領十八番おはこのちゃぶ台返しで、アメリカがイラン核合意を一方的に破棄したのです。

これは確かに選挙期間中の公約の一つであり、その他の公約と同様、粛々とそれを遂行したに過ぎません。しかしその背景には、トランプとイスラエルとの関係を忘れてはなりません。

トランプとイスラエルの結びつきは、娘婿であり大統領上級顧問である、ユダヤ系のクシュナーという存在が示す通り、非常に強いものがあります。そしてイスラエルとイランは敵対関係にあります。

今回の一方的な合意破棄に、イスラエルが絡んでいることは間違いないでしょう。破棄の理由についてはなんの正当な根拠にも基づきません。ただイランが合意を守っていないと決めつけているだけです。

おわりに

トランプはパフォーマンスの名人であり、ディールの達人です。奇抜な態度や行動を取っているように見えるのは、実は緻密な計算の上での、単なる見せかけなのかも知れません。

就任前に数々の前政権の政策を批判し、それらを破棄したり正反対の政策を施すことを公約し、就任後は実際にその公約の幾つかを実行しています。

しかし公約を強行した後に再修正したり、取りやめたりする場合もあります。だからといってトランプは本当に行き当たりばったりという訳ではなく、それなりの計算があるのだと思います。

一つ言えるのは、トランプはオバマが嫌いということです。オバマの功績には、とにかく茶々を入れたくなるのです。だから一度白紙に戻して、トランプ自身の功績にすれば気が済むのです。

今回のイラン核合意の破棄も、一方で相手を最大限挑発しておいて、もう一方ではなにがしかの新たな関係を結びたいと思っているのかも知れません。

ところがトランプ本人はイスラエルとの関係が深いので、その手前自ら態度を翻すこともできません。そこで登場するのが安倍総理なのです。

安倍総理が仲介に入って首尾よくやってくれれば、トランプとしてはイランにも媚びず、イスラエルにも反発を買わずに済むのです。

今回安倍首相は、イランのローハニ大統領と最高指導者のハメネイ師に面会する予定ですが、大統領はともかく最高指導者と会えるということはすごいことなのです。

しかしそんな親日であるイランも、今後もそのようにあり続けるのかどうかは容易に判断できません。アメリカ寄りの発言をすれば、最悪の場合、日本といえども敵対国と見做されてしまうでしょう。

今回の安倍総理のイラン訪問は、紛争勃発寸前の中東情勢を鎮静化させることができるかどうかの極めて重い責務を担っているのです。

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