金栗四三とは誰?経歴や功績は?何で”いだてん”が大河の主人公なの?

金栗四三(かなくりしそう)という人物がクローズアップされる機会が近頃増えています。金栗四三って、今まであまり聞いたこともない人だけど、一体誰なのでしょうか。

金栗四三は陸上競技であるマラソンの、日本での礎を築いた人物で、日本人選手として、初めてオリンピックに出場した人です。明治45(1912)年開催の第5回ストックホルム(スウェーデン)大会で、競技種目はマラソンです。ちなみに金栗は代表選手ふたりのうちのひとりで、もうひとりは陸上短距離の三島弥彦(みしまやひこ)です。

金栗はその後の一生をマラソンに捧げ、「日本マラソンの父」と称されました。大手製菓企業、江崎グリコ株式会社の有名な「ゴールインマーク」は金栗四三がモデルだとも言われていますが、果たしてその真相は?

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目次

金栗四三は日本人初のオリンピック出場選手

生い立ち

金栗四三は明治24(1891)年8月20日、熊本県玉名郡春富村(現在の玉名郡和水町)で代々続く旧家であった金栗家の父・信彦、母・シエの間の、8人兄姉弟の7番目の子供として誕生しました。

金栗は濁ってカナグリと呼んだり、四三も同様にシゾウと呼んだりする文献もあるそうですが、熊本県和水町社会教育課の見解によれば、どちらが正しくどちらが間違いということはないそうです。

また四三は23歳で結婚し池部(イケベ)家の入り婿となっていますので、これ以降本名は池部四三なのですが、本人が生涯旧姓を通称としたので、ここでは最も一般的なカナクリシソウという呼び名で通します。

幼少の頃より勉学に励み、吉地尋常小学校、玉名北高等小学校、玉名中学校へと順調に進学、成績は常に学年で1~2位と、非常に優秀であったため、上級校への進学を進められた金栗四三は海軍兵学校を受験します。

しかしながらそこが角膜炎のため不合格となり、中国大陸に渡って一旗揚げることを夢見ます。ところが兄に強く説得され、結局試験の練習用に併願していた東京高等師範学校に進学することにしたのです。後の東京教育大学、そして現在の筑波大学です。

嘉納治五郎との出会い

この時の東京高等師範学校の校長が、講道館を設立して柔道の普及に尽力した「柔道の父」嘉納治五郎(かのうじごろう)です。

この時嘉納治五郎は東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に選出されていて、明治45(1912)年の第5回ストックホルムオリンピックへの日本の参加を求められていました。

そのため彼は関係機関に働きかけるものの、政府の腰は重く非協力的でした。体格の全然違う西洋人達の、順位を競う熾烈な争いに体力が及ばない日本人が参加することには、生命の危険性も考えられ批判的だったのです。

そこで東京都内の大学有志を招集して熱弁を振るったところ賛同を得て、大日本体育協会(後のJOC、日本オリンピック委員会)なるものを設立して初代会長に就任しました。そして数々の障害を乗り越え、とうとう出場選手を決めるべくオリンピック予選会の開催へと漕ぎ着けます。

初のオリンピック予選会で世界記録樹立

金栗四三はこの予選会に出場したのです。四三は幼い頃病弱でしたが、それを克服するため、小学校へは片道12㎞の道のりを早足だったり、走って登下校していました。中学校は寮での寄宿生活でしたが、週末には片道20㎞を走って実家へ戻っていました。そうした経験が大いに役立ったのです。

金栗四三は足袋を履いて予選に出場しました。ランニングシューズなど当時まだ日本には存在しなかったのです。途中で足袋が破れてボロボロになり、素足になってまでも走り続けた結果、当時のマラソン世界記録を27分も上回る記録で優勝して、日本のみならず世界中を驚かせました。

余談ながら彼はこの走るための「履き物」の進化・改良にもこだわり続け、師範学校近くで「播磨屋足袋店」を営む職人・黒坂辛作の協力の下「金栗足袋」を開発、その後更にそれを発展させて、国産初のランニングシューズである「金栗シューズ」を世に生み出しました。

俗に俊足の人を、足が速いと言われる仏神に因んで「韋駄天(いだてん)」と呼んでみたりしますが、この時の金栗四三は、誰の目から見ても、まさにその韋駄天以外の何物でもありませんでした。

日本初のオリンピック代表選手

オリンピック代表に選抜されるのは、今でも決して容易いことではありませんが、選抜された以上、出場することについてはそれ程難しいことではないでしょう。ところがほんの1世紀前の日本では、出場するのにさえ、今では想像を絶するくらいの苦労や偏見がありました。

渡航費・滞在費等全ての費用は自腹でした。飛行機などまだ存在しない時代でしたから、会場に行くのに船や鉄道を使って17日間掛かりました。情報もありませんので、現地の地理とか気温とか食生活とかも全く分からず、事前の調整や体調管理すらままなりませんでした。

金栗は当初オリンピック出場を固辞しましたが、恩師嘉納治五郎に「黎明の鐘となれ」と説得され、この言葉に強く感銘を受けました。そして多くの人たちに助けられ支えられながら、出場するに至ったのです。

悲しい結末

参加選手68名で東洋からの出場は金栗四三ただ一人のこのマラソンレースは、最高気温40度という猛烈な暑さの中で行われ、34人が途中棄権し、レース中に倒れて翌日死亡した選手まで発生する程の過酷なものでした。

そして当の金栗も、当日宿舎に迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走って行かなければならなかったというアクシデントにも見舞われ、レース途中で日射病により意識を失って倒れてしまいました。

近くの農夫に発見され介抱されたので、幸いにも命に別状はありませんでした。しかし金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝でしたので、金栗はレースを諦めざるを得ず、大会本部に届け出をしないまま、帰国してしまったのです。

明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御したことで日本中が深い悲しみに包まれていました。その最中での9月18日の帰国となったため、出迎えるものもほとんどなく、世間でこの日本初のオリンピック参加が話題になることはありませんでした。

その後のオリンピック

ストックホルムで惨敗して戻ってからも、金栗はマラソンを諦めず、ますます精進してオリンピック出場の機を狙いました。

第一次世界大戦勃発の影響で次の第6回ベルリン(ドイツ)大会は中止が決定されました。この時金栗四三は、26歳という年齢的にも能力的にも脂の乗った競技適齢期でした。

それを戦争によって奪われてしまった金栗四三でしたが、彼はこんなことには挫けることなく、次のアントワープへと気持ちを切り替えます。

この不屈の精神により、結局その後も大正9(1920)年の第7回アントワープ(ベルギー)大会と、続く大正13(1924)年の第8回パリ(フランス)大会での出場を果たしたのです。

前者の記録が2時間48分45秒4で16位、後者では実力を発揮できずに32.3㎞付近で意識を失って脱落してしまい、残念ながら棄権となり、これが最後のオリンピックとなりました。

金栗四三は「日本マラソンの父」

金栗四三は、果敢に挑む陸上競技選手であると同時に、優秀な陸上競技指導者でもありました。

ストックホルムからの帰還後は東京高等師範学校に戻り、勉学に勤しむ一方、次のオリンピックを目指して練習をしながらも既に後輩へのマラソン指導を始めています。

師範学校卒業後は、一旦故郷の熊本に帰省し、結婚して地元名士のり婿となり池部となりますが、師範学校研究科への進学が決まっていたので、新妻を一人残してすぐまた東京に戻ります。ベルリンを目指すという明確な目的があったので、誰もそれを咎めはしませんでした。

研究科生になって次のオリンピックを目標としている間も、師範学校の先輩たちが赴任する各地の学校へ出向いて指導を行い、マラソンの普及に勤めました。

結局次のベルリンオリンピックは中止となってしまい、研究科を修了した金栗四三は神奈川師範学校に赴任となりました。

当時は兵役というものがありましたが、オリンピックでの活躍こそが日本国のためと判断されて兵役免除となった金栗四三は、より一層マラソンや長距離走の普及、強化に力を注いでいきます。

大正6(1917)年には、駅伝の始まりとされる東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走の関東組のアンカーとして出走、大正9(1920)年には第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力し、マラソン選手の発掘、育成を強化していきました。

同年2月14日午後1時にスタートした第1回大会は、金栗四三の母校である東京高等師範学校が見事優勝したのでした。ここから箱根駅伝の伝統が築かれていくのです。

その後も生涯を通じてマラソンの普及に携わり、数々の功績に対して昭和30(1955)年、スポーツ界では初となる紫綬褒章を受賞しました。

晩年は故郷の小学校でマラソンを教えていましたが、昭和58(1983)年11月13日、肺炎のため死去、享年93歳でした。そして死後にさえその功績が讃えられ、従五位銀杯が皇室から下賜されたのです。

金栗四三はグリコの「ゴールインマーク」のモデル?

大阪は道頓堀のランドマークとして、グリコの「走る人」があります。江崎グリコによれば、これを「ゴールインマーク」と呼んでいるそうです。

また、わざわざ大阪まで足を運ばなくても、最寄りの売店でグリコのキャラメルでも買えば、ゴールインマークを手中に収めることさえできます。

このマークのモデルが金栗四三であるといった噂が流布している様ですが、残念ながら噂話に過ぎません。なぜならば江崎グリコの広報担当者が、ゴールインマークに特定のモデルはいないと断言しているからです。

しかし、金栗を含む3名の特定の陸上競技者をはじめ、多くの陸上選手達がにこやかにゴールインする姿をイメージして作ったということが、グリコの記録として残っているらしいです。

それでもやはり、金栗はイメージとしての抽象的な一部分であって、金栗自身をモデルとしてそのまま画いている訳ではありません。

第5回ストックホルム大会の後日譚

昭和42(1967)年3月、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典がスウェーデンでありました。当時マラソン中に消えた日本人の話は地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていました。

記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会が、この語り草通り、棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっていないまま、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた人物に気付きました。

記念式典の演出に最もふさわしいと見做されたこの人物は、式典で54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3というオリンピック史上最長記録でゴールして競技を完結させたのですが、その人物こそが、金栗四三なのです。

おわりに

オリンピックが初めて日本で開催された昭和39(1964)年の第18回東京大会において、日本人マラソン選手として円谷幸吉(つぶらやこうきち)初めて3位に入賞し、表彰台に登って銅メダルを授与されました。日本初のオリンピック代表選手として出場した金栗四三以来、実に52年、半世紀以上が経過しての快挙でした。

それから更に56年、再び東京の地でオリンピックが開催されようとしています。日本人が選手として初めてオリンピックに参加してから108年が経ち、その間に世の中はめまぐるしく変わり、オリンピックの競技種目も多様化しています。なにも陸上競技だけがオリンピック競技ではありません。

しかしただひたすら長い距離を走り抜けるだけの単純にして過酷なこの競技は、今でも依然人気度が高く、オリンピック競技の中でも花形の種目ですし、何よりも日本人が史上初めて出場したオリンピック競技であることを決して忘れてはいけません。

日本のオリンピックに関する歴史は陸上競技と共にあり、それは即ち金栗四三と共にあるということです。新元号下2年目でまだまだ祝賀ムードの最中であろう2020年の、日本で二度目の第32回東京オリンピックを語る時、この偉人の輝かしい功績について、決して知らずに済ましてはいけないのです。だから、NHKの大河ドラマでこの話題を取り扱うことは、大変結構なことだと思います。

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