廃藩置県の詔宣下は明治4年7月14日。日本はこれで真の維新を迎える。

明治4年7月14日廃藩置県はいはんちけんみことのり宣下せんげされました。よって7月14日は廃藩置県の行われた日、と言いたいところですが、そう単純ではありません。

日本は明治5年12月2日まで、旧暦である天保歴を使っていました。その翌日より新暦である現在のグレゴリオ暦に改暦して明治6年1月1日としていますので、明治4年7月14日を新暦に換算、即ち西暦にして言えば、1871年8月29日にあたります。

よって廃藩置県施行しこうの日は8月29日となります。令和元年8月29日は廃藩置県148周年日、令和3年8月29日が区切りの150周年日となります。

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目次

明治維新

明治維新めいじいしんは日本においてあまりにも有名な言葉で広く使われていますが、では、いざ明治維新とは何かと尋ねられたら、それに的確に答えるのはなかなか難しいものです。

明治維新とは、江戸幕府崩壊から明治新政府設立後の中央集権国家を形成するまでの、一連の社会変革の過程を言いますが、その始点と終点には諸説あるようです。

しかし一般的には慶応3年 10月14日(1867年11月9日)の大政奉還たいせいほうかんから、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令おうせいふっこのだいごうれいによる新政府の樹立、慶応4(1868)年から明治2(1869)年にかけての戊辰戦争ぼしんせんそう、明治4(1871)年の廃藩置県までの流れを指し、これをもって明治新政府による国内の政治的統一が完成したとされています。

即ち、維新の総仕上げが廃藩置県であり、これをもって古い社会制度は完全に転換し、真の維新を迎えたのです。

版籍奉還

明治維新といわれる諸改革の主だった目的は、一にも二にも古い幕藩体制からの脱却にありました。

大政奉還は幕府が下した手段ですが、日本最後の征夷大将軍せいいたいしょうぐんである江戸幕府第15代将軍徳川慶喜とくがわよしのぶ幕府が大政を奉還しても、朝廷は政治経験がないので徳川幕府に頼らざるを得ないと踏んでいました。

しかし結局は討幕派の方が策略上手で、慶喜公はその権威を自ら放棄することになりました。なぜならば、王政復古の大号令によって、徳川幕府を拠り所としない、従来とは全く違う天皇中心の政治を行うことを新政府が宣言して、一度は慶喜公の思惑通り徳川家温存論にもなりかけた流れを、見事に断ち切ってしまったからです。

こうした徳川体制からの完全なる決別がきっかけとなって、戊辰戦争という、悲惨な出来事も起こって多くの人命が失われましたが、とにもかくにも新政府軍が最終的には勝利をおさめ、徳川幕府による封建的支配体制は一応終焉しました。

しかし、幕府がなくなり新しく明治政府が立ち上がって以降も、300年近くも維持された幕府の社会体制は、簡単には変えられませんでした。

地方では依然藩主なる者が存在して、それぞれの藩を治めていたのです。これでは結局徳川家という大大名と、戊辰戦争で幕府側にくみした諸藩が滅んだだけのことです。それらの領地は接収され、直轄地として支配されましたが、明治政府の地方への影響力というものはまだまだ希薄でした。

新政府としては、西欧列強国の圧力に屈しない国づくりのためにも、幕藩体制から脱却した新たな中央集権国家を築くことが喫緊の課題でした。

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そこで先ず新政府は、明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還はんせきほうかん詔勅しょうちょくによって藩主の持つ所領地の改革に着手します。版籍奉還とは、版である所有地と籍である領民を天皇に返還させることです。

それによって土地と人民は事実上明治政府が掌握するものとなりました。ところが各大名は土地や人民は我がものではなくなったものの、新政府に任命される形で引き続き知藩事ちはんじという新職について藩の統治者となりました。

実質各藩を治めているのは、相変わらず呼び名が変わっただけの元藩主ということで、改革の中身としては大きな変化はありませんでしたが、それでも中央集権化の改革の一歩になったという意味では評価に値するものです。

廃藩置県

その一方で、幕末来の緊迫した政治状況や戊辰戦争への出兵などによって、多くの藩は多額の財政出費を余儀なくされていました。それでどの藩もかつて程の求心力はなく、士農工商それぞれ困窮して、民衆の不満は募り、今にでも暴動が起きるような状況でした。

反乱の矛先が自分達に向けられることを危惧した新政府は、こうした事態を回避するためにも、古い体制を打ち壊し、新政府による中央集権国家を一刻も早く作り上げて、政治の実権を握る必要があると考えました。

それでも今なお有力な旧藩主達からは相当な反発があるものと予想されました。それで新政府は、各藩には直前までその事実を隠しながら、重要な関係各所への根回しを徹底させ、ついに明治4年7月14日(1871年8月29日)、東京にいる知藩事を皇居に集め、重大発表を行いました。

即ち、全国の藩を廃止して、中央が管理する県と府に置き換える廃藩置県の勅令が発せられたのです。明治政府が地方統治を中央の管下の管理の下に一元化した最大級の行政改革であり、これによって名実ともに江戸自体は終焉したのでした。

その後

廃藩置県が実行された当初、府県の数は3府302県もありました。その後何度か府県合併がおこなわれ、明治22(1889)年には47道府県まで調整されます。現在の1都1道2府43県となったのは、昭和47(1972)年5月15日からです。

各府県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令けんれいが派遣され、知藩事は失職させられましたが、政府は旧藩主を東京に移住させて、身分的には華族として扱い、経済的には恩給を与えて厚遇しました。

新政府は廃藩置県によって、旧藩の債務も引き継ぎ、この問題に取り組みました。旧藩主やその家臣はすべての債務が免責されました。

一方で債務はその種類を分類され、新政府が責任をもって債権者に返済したものもありましたが、逆に継承せずに一切無効とされたものもあって、最終的に届出総額の半分以上が踏み倒される形となりました。

おわりに

明治の廃藩置県によって、江戸幕府の下での制度であった幕藩体制に終止符が打たれましたが、実はその江戸時代には、大名の領地を呼ぶのにはんという言葉を公式に使用したことはなく、一部の学者などが書物などで使用するだけのものでした。

藩という言葉が、行政区の名称として公式に使用されたは明治になってからのことで、廃藩置県で藩が消滅するまでの僅か2年程度のことなのです。

廃藩置県で封建社会体制にとどめを刺した明治政府でしたが、すたれた藩は江戸時代から引きずるものではなく、単に自分達で作った藩をたった2年でやめただけということになります。

廃藩置県は明治維新の偉大なる功績には違いありませんが、言葉の上では、それが真実です。ですから、ちょっと視点を変えれば、これこそが、廃藩置県の真相とも言えたりします。

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