伊藤若冲とはどんな人?江戸中期の天才絵師は現在もなお人気上昇中!

若冲じゃくちゅうの絵が近年注目を集めています。若冲とは、江戸時代中期の絵師伊藤若冲いとうじゃくちゅうのことです。そんな昔の画家の絵が、なぜ今になって評判となっているのでしょうか。

昭和46(1971)年、東京国立博物館において、特別展観「若冲」が開催されました。その時、代表作である動植綵絵どうしょくさいえ30幅全ての他、京都の鹿苑寺や西福寺の襖絵等の主要作品が陳列されたのですが、その辺りから若冲は再評価されるようになりました。

しかし、存命の頃は注目されていなかったのかと言えば、そういう訳ではありません。生前の若冲は、平安人物志へいあんじんぶつしの上位に掲載される程の人気や知名度がありました。平安人物志とは、近世における京都在住の文化人や知識人を網羅して集成した人名録です。

ただ、その後江戸末期には有能な浮世絵師が多数輩出されたこともあってか、明治以降は一般の間では忘れられがちな存在となっていたのです。

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目次

若冲の経歴

伊藤若冲は絵師として知られていますが、伊藤若冲という名前自体も絵師としての若冲の名前であり、その経歴には色々な側面があります。

若冲は、正徳6(1716)年に京の錦小路にあった青物問屋枡屋ますやの長男として生を受けました。当主は伊藤源左衛門いとうげんざえもんで、屋号は当主の名前の一文字を取って、桝源ますげんとも言いました。

若冲が23歳の時、父親の死去に伴い、四代目桝屋源左衛門を襲名して、家業を継ぎましたが、その傍ら、30歳を過ぎた頃から絵を本格的に学び始めたのです。

最初の頃は、当時の主流だった狩野派の門を潜ったのですが、狩野派とは異なる自分独自の画法を築きたいと思い、その後は独学で修練を重ねていきました。

そこで若冲は、名画の模写のために足繁く京都の寺々へ足を運びました。京都の寺には中国画の名画を所蔵するところが多かったからです。

芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった若冲の絵への思い入れは年々増し、ついには家業を放棄したも同然に、丹波の山奥に2年間も隠棲してしまい、終日絵に没頭する日々を過ごしました。

その後京の街に戻った若冲は、齢40となった宝暦5(1755)年、家督を3歳下の弟に譲り、名も源左衛門から茂右衛門へと改め、早々と隠居してしまいました。これ以後死去するまでの半世紀弱の間、若冲はずっと作画に専念することになります。若冲という名は、そんな頃に禅の師であった相国寺しょうこくじの禅僧から授けられた居士号だと言われています。

本格的絵師としての若冲

この頃若冲は写生のために庭で数十羽の鶏を飼っていましたが、すぐには写生をせず、鶏の生態をひたすら観察し続けるのみでした。それは禅の修行にも通じ、恐らくは禅から得たものでもありました。

とにかく朝から晩まで徹底的に庭の鶏を見つめているのです。そして一年が経ち、ようやく見尽くしたと納得し、とうとうその本質を見極めた時、無意識に手が動き出し、筆が乗ったといいます。

以降鶏の写生は2年以上も続き、そうした鍛錬のおかげで、若冲は鶏だけでなく、草木や岩に至るまでその本質が捉えられるようになり、あらゆるものを極めて写実的に描写できるようになったのです。

やがて若冲は、花鳥画を名のあるところに納めて、後世の理解を待ちたいという思いを持つようになり、代表作となる濃彩花鳥画である、動植綵絵に着手します。

それは、身の回りの動植物を題材にしたもので、完成までに10時年を要した全30幅の大作です。結果日本美術史における花鳥画の最高傑作となったこの作品は、最も世話になっていた相国寺に寄進され、のち皇室御物こうしつぎょぶつとなり、現在は宮内庁が管理しています。

晩年の若冲

還暦を迎えた頃から、それまでの色彩豊かな作品とは対照的に、墨絵のような拓版画たくはんがを手掛け始めます。拓版画とは、通常の木版画とは逆の発想で版面を彫る手法で、後述する石峯寺せきほうじ五百羅漢ごひゃくらかんを布置するための資金作りに始めたのですが、その後この独自の手法の拓版画を継承した者は誰もいません。

天明8(1788)年、72歳になった若冲に突然不運が訪れます。京都の街に、後世天明の大火てんめいのたかと名付けられた大火事があり、若冲の居宅も仕事場も全焼してしまったのです。

元々老舗大問屋の若旦那であり当主であった若冲は、隠居後も本家の支援を得ていて生活に困ることなど全くありませんでしたし、それ故絵を描くことに没頭することが出来ていました。

しかし焼け出されて私財を失ってしまった若冲の生活は貧窮し、70歳を過ぎて初めて家計のために絵を描くことになったのです。この時大阪に逃れていた若冲の作品として、西福寺の金地の襖に描いた、仙人掌群鶏図襖さぼてんぐんけいずふすまえがあります。

寛政3(1791)年頃になると、再び京都に戻り、縁の深かった相国寺とは別れを告げて、石峯寺の門前に庵を結んで隠棲しました。この頃、生活に窮して画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになったことを自嘲して、斗米庵とも、米斗翁とも名乗っていました。

最晩年には積年の夢であった、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群、五百羅漢像を築き上げました。

当時貯めた資金は大火とともに消え去ってしまいましたが、理解ある住職と、庵に同居して身辺の世話をしていた妹の協力の援助の下、若冲が描いた下絵に基いて、石工が石を彫り上げて、長い年月を費やして五百羅漢像は完成しました。

一大事業を成し遂げた若冲は、寛政12(1800)年、85歳の長寿を全うしてこの世を去りました。

おわりに

明治以降忘れられながらも、再び脚光を浴び始めたのは、きっと、今でも褪せることのない、その色彩のせいではないでしょうか。

それがどれ程凄くて特別なことなのか、50年、100年経った程度では何とも思われなかっただろうけど、150年、200年も経過してなお色褪せずにいるのであれば、さすがに驚嘆せざるを得ないからです。

今、海外にも熱が広がり、冷めることのない若冲ブーム。世界中がジャクチュウムチュウです。

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